『須崎のゴルフ人生 <序盤>:社会人に備えてのお稽古ごと』
今回は私、須崎のゴルフとの出逢いとゴルフ人生の序盤についてお話したいと思います。
❑ ゴルフ⛳との出逢い
私は15歳の1981年(昭和56年)にゴルフをはじめました。
その頃はまだまだ
「子どもがゴルフなんかやって生意気!」
という風潮でした。
私は同世代の人としてはかなり早くゴルフの世界に入った方ですが、2007年に石川遼選手が私がゴルフの世界に入った歳と同じ15歳であの✨見事なツアー優勝✨を果たしていますから、それを考えると年齢的にかなり遅いスタートです。
その時代時代の価値観によって同じ年齢でも印象がずいぶん変わりますね。
さて、私のゴルフとの出逢いはある日、父に「秀明、一緒にゴルフの打ちっぱなしに行ってみるか?」と誘われたのがキッカケです。
多くのその歳頃の男の子のように私にとって父は「あまり一緒にいて欲しくない存在」だったので、今、当時を振り返っても、「どうして一緒に行くのに同意したんだろう?」と不思議です。
後でわかったのですが、父の思惑は自分の苦い経験から「息子が社会人になった時にゴルフで苦労しないように」と『社会人に備えてのお稽古』として私にゴルフをさせたかったようです。
父は商社マンだったのですが、若い時にはゴルフをするには環境の良いイギリスのロンドンに駐在していたこともあり、同僚をはじめゴルフに頻繁(ひんぱん)に誘われていました。しかし、腕前が悪くプライドが許さず、誘いから逃げ回っていました。そのような経験から息子にはそういう苦労をさせたくないと思ったのでしょう。
父のために申し上げておきますと、後に父はゴルフに前向きに取り組みはじめて克服し、他界した本年(2017年)までゴルフを楽しんでおりました。
当時、私は神奈川県、川崎市に住んでいたので一番近い父の練習拠点の練習場に足を運びました。その練習場は打ち上げの150ヤードに満たない距離の短い練習場でした。
受付でJGA(だったと思うのですが・・・)の左手甲にボールマーカーが付いているゴルフグローブを買ってもらい、打席に向かいました。
生まれて初めて持ったクラブは父が当時使用していたマグレガー社のターニーというモデルのピッチングウェッジでした。
ピッチングウェッジでしたが、ソールの刻印は「P」とか「PW」ではなく「10番」とありました。
舶来ものでものすごく重いクラブでした。
一番初めは父が教えてくれたのですが、
「もっと速く振れ」
と
「人工芝のマットを飛ばすくらいに叩け」
と言われたことを覚えています・・・本人は「これ以上出来ないくらいに一生懸命速く振っていた」のにです😅
スウィングの方がわかってくるにつれて父のフォームがスウィングではなく、力づくにボールを打って行くスウィングであること、インパクトで深くクラブが地面に入り過ぎていることなどがわかってきました。
❑ ゴルフを習う
父は早いうちに私をレッスンプロに託しました。
私としてはラッキー✌・・・親不孝者ですが、あの父の「力づくで打つ」理論で教え込まれていたら、今の私はなかったと思います😁・・・父さん、ゴメンナサイ。
はじめての先生はまだ若い方でとても相性のいい先生だったのですが、通いはじめて数ヶ月でその練習場の土地にマンションが建つということでお別れ👋となりました。
父と私はその後、ホームグラウンドを自宅から車で約15分の東急田園都市線のあざみ野駅からバス便の剣山ゴルフガーデンに変えることになりました。
当時、父が早く帰ってくると知るとウキウキ😆したものです。
皆さんには断らなくても良いのでしょうが😅、誤解があるといけませんので申し上げておきますと父の帰りを待ちわびたり、一緒にいるのが喜ばしかったのはゴルフの練習に行くというときだけです。
他の時間帯はそれまでの父子関係のままでした。
剣山ゴルフガーデンは人気のある練習場で、土日などは「3時間以上待ち」というようなこともありましたが、ゴルフの練習に行くときには一緒にいることが負担ではないのですから不思議としか言いようがありません。
ホームグラウンドを変更して数年は受験勉強もあって独学でゴルフに取り組んでいたのですが、大学に入ってから私は剣山ゴルフガーデンのレッスンプロの高橋先生に習うことになりました。この高橋先生は青木功プロと同門で練習を一緒にすることもしばしばあったとおっしゃっていました。
ここで高橋先生からお伺いした青木功プロの逸話をおすそ分けしたいと思います。
【高橋先生のお土産話】
高橋先生が青木プロと練習のためのラウンドをするときはいつも「握る」(賭けるということですね)らしいのです。
そして、当時既に米国PGAツアーで優勝も飾っていた青木プロは高橋先生をはじめプロ仲間に「ハンデ幾つ欲しい? 7つでいいか?😁」と言ってハンデをくれるらしいのです。
皆さん! 同伴者はアマチュアではなくて皆プロですよ!!
それで、平気で9ホールのハーフを29😱(パーは36)といったスコアで上がって来ちゃうらしいのです。
ですから「ハンデ7つもらってもほとんど勝てなかった」とおっしゃっていました。
それはそうですよね。18ホール60くらいのスコアだとしますと高橋先生の方は4アンダーの68でも負けちゃうわけですものね。
練習の時の青木プロは10m位の距離のあるパットでも、複雑なラインのパットでもグリーンを外したアプローチでもいつも「入るんじゃないか?」という感じを同伴者に与えていたようです。
さて、そのような話を教えてくださった高橋先生に教わることになったわけです。
この先生のレッスン法にはたまげましたね😱
私は
「半年後にラウンドに行くのでよろしくお願いします」
と挨拶してレッスン開始となったわけですが、初回は右腰から左腰までのいわゆる「9時〜3時」という振り幅の動きを教わりました。
その時に先生は
「9時〜3時は何のクラブでやってもいいけど、あの50ヤードの看板を越えるボールを打っているところを見たら、もう教えないからね」
とおっしゃいました。要するに「50ヤード以上打つことは厳禁」ということです。
ゴルフをされていらっしゃる皆さんであれば、これがどれほど辛いことかはお分かりになりますよね?
ドライバーのフルスウィングなんて「もってのほか」です。
その頃、私のゴルフ歴は3年くらいにはなっていたので、もちろん初心者ではありません。
ドライバーや他のクラブをフルスウィング出来ないことはかなりのストレスになりました。
それでも、私は「9時〜3時の練習は1、2回で徐々にスウィングを大きくして行くのだろう」と自分に言い聞かせていました・・・・が、
翌月もその次の月も「9時〜3時」のまま😅
でした。
そして、とうとう半年が経過し、ラウンドに行く前週のレッスンになりました。
私はそのレッスンの際に先生に
「あのぉ〜、先生、来週ラウンドなんですけど、フルスウィングを教わっていないんですが・・・」
と言いました。
そうしたら、先生からの返事は
「そのまま行ってらっしゃい👋」
でした。
そういったわけですが、1週間後私は人生で初めてのハーフのアンダーパースコアの35(パー36)を出すことになるのでした。
高橋先生に教わっていた頃のメモがまだ残ってます。その中身の一部がこちらです。
30年以上前のレッスンのもの(2017年現在)です。
高橋先生に教わる頃には独学で得た知識で頭の中はいっぱいだったので、その持っている知識にこだわって先生の教えを素直に教わらない不良生徒でした😅。
そのツケが回ってきたこと😥は次の記事にございます。まだお読みになっていらっしゃらない方はどうぞ♫
『先生の教えは守るもの』
「急がば回れ」・・・あなたのゴルフ上達が回り道にならないように私の経験から学んでください。 私は1981年(昭和56年)にゴルフを始めたのですが、割と早いうち…
❑ お稽古ごととしての成果
さあ、須崎のゴルフの出逢いと序盤はこのようなものだったわけですが、最終的に父が目論んだ
「社会人に備えてのお稽古」
としての成果はどのようなものだったのでしょうか?
その結果を観るには、銀行に就職し、数々のコンペや同僚とのゴルフをはじめとしました私のその後の社会人としての人生をもう少し辿(たど)らないといけないのですが、ここではそのような紙面がありませんから、結果だけをまとめておきますね。
【お稽古としてのゴルフの成果】
◯ ゴルフのお誘いをいただいても困らなかった。
◯ ゴルフ場でのマナーやエチケットで評価をいただき、会社や仕事の席でも上司やお客様から信用いただくことができた。
◯ ゴルフの基本マナー/基本エチケットを仕込んでいただいたお陰でビジネスの現場でマナーやエチケットで困ったことが少なかった。
◯ ゴルフを教えることを通じて、同僚/仕事でつながりのない他部署の面々やお客様との接点ができた。
◯ 会社のコンペの際に様々な面で頼りにされた。
◯ 見知らぬ方が同じ組に入ってきても余裕を持ってプレーが出来た。
・・・とこうしたことが成果でした。
これだけあれば十分ではないでしょうか?
父の目論見は成功したと言うことが出来るのだろうと思います。
親にはいつまでも頭が上がらないものですね。
父さん、有難う!!
今回もお読みいただきまして有難うございました😃
また一緒に楽しみましょう!!