『須崎が大学1年生の時のゴルフクラブセッティング』
今回は皆さんと一緒に私が慶応義塾大学に入学した年(1985年<昭和60年>)のクラブセッティングを見ていきたいと思います。
ちなみに私は体育会ゴルフ部ではなく、慶応で20ほどもあるウチでもこじんまりと控えめに活動していた・・・でも家庭的な温かみを感じる・・・「モダンゴルフクラブ」という同好会に所属してゴルフに励んで💦いました。
余談になりますが、練習拠点は東名川崎インター近くのゴルフ練習場のご厚意で使用させていただいておりましたが、1982年の日本オープン選手権で優勝した矢部昭プロがその練習場で練習していらっしゃいました。
またゴルフチャンネルのトーナメント解説でおなじみの富永浩プロ(師匠は前述矢部昭プロ)をお育てになられた先生もおられて、私も一度教わる機会をいただいたのを覚えています。
さて、話を私の当時のゴルフクラブに戻しますと、私は高校生の時にミズノのチャンピオンフラッグという初心者モデルでゴルフを始めたのですが、そのゴルフクラブを買いに行ったときにお店に展示してあった「ミズノプロ MS−1」というクラブセットのウッド・アイアン双方の美しさに胸を打たれてそのクラブに一目惚れ😍してしまいました。
そして、まったく生意気なことと知っていても
「チャンピオンフラッグではなくて、ミズノプロ MS−1が欲しい〜ょ」
と心のなかで叫んでいたのでした。まあ、当然のことながらチャンピオンフラッグを手にお店を出たのではありますが・・・💦
そのお店は川崎市の鷺沼というところにあった(今でもあるのかなぁ〜😔??)今あるようなゴルフ用品専門店ではなく、野球のグローブやバットをメインに売っている小さなどちらかというと野球専門店でした。
・・・というわけで私の長年にわたるゴルフクラブ遍歴(← 多大な投資💰ということでもあります😅)はミズノのチャンピオンクラブから始まったわけです。
さて、それから3〜4年経ちまして私は大学入学を果たしまして念願のミズノプロ MS-1を手にすることになります。
このときには既にドライバーはMS-1ではなく、他に欲しいものが出来ていましたので😅アイアン(番手3番〜PW)のみが同モデルとなりました。
それではお待たせしました。そのころのキャディーバッグの中身がこちら↓になります。
バッグの中身をご紹介しますね。
<クラブセッティング>
ドライバー:
ミズノプロ 中島常幸プロモデル(=特注)
※ 中島プロの「しま」の字は当時こちらの「島」だったので(現在 「嶋」)、本稿ではこちらの字を使用させていただいております。
シャフト:プレシジョン FCM 7.0(X相当)
3番ウッド:
マグレガー W-55(復刻版)
シャフト:市販オリジナル
アイアン(2番):
ミズノプロ MS−5
シャフト:ダイナミック(R)
アイアン(3〜PW):
ミズノプロ MS−1
シャフト:ダイナミック(R)
アプローチ用サンドウェッジ:
ベン・ホーガン スペシャルサンド
バンカー用サンドウェッジ:
リンクス マスターモデル60度
パター:
PING A−Blade、PAL、B60等
使用球:
ブリヂストン レクスターB2
続いて各ゴルフクラブにつきましてお話していきましょう♫
<解説>
ゴルフを始めた当初から私は中島常幸プロのスウィングが好きで目標としていました。
当時中島プロは
「世界で5本の指に入る✨✨美しいスウィング✨✨の持ち主」
と海外でも評価されていました。
スウィングを真似たいと思う私はそう時間がかかることなく
「中島プロと同じ道具を使いたい」
と思うようになっていました(← 私って基本的にミーハーなのです😅)。
【ドライバー】
そこで大学入学後、御茶ノ水のミズノ本店(エスポートミズノ)に行って特注で作っていただいたのが、このドライバーです。
当時、ミズノの専属プロの顔ぶれは「中島常幸」、アイアンの切れ味で有名だった「鈴木規夫」をはじめ、「岡本綾子」、「樋口久子」、「涂阿玉」、「大迫たつ子」、「森口祐子」・・・と実に充実(※)していて、それぞれのプロの使用モデルを「ウッド」/「アイアン」/「キャディーバッグ」で発売していました。
※ いかに挙げてある選手たちが凄い選手であったか、ご興味と探究心あふれる方は1980〜1985年の男女、特に女子の賞金ランキングを調べてみてください。
中島プロモデルで特注ということは、まず「中島プロモデルのクラブヘッド」ということで決まっているのですね。そして「特注」というのは、シャフトやグリップはもちろんのこと、クラブヘッドの塗装の色やインサート・・・このクラブで言えば朱色の部分ですね・・・の色、ソールの形、バックメタル(※&下図をご参照ください)の有無などを自分の好きなものに変更できるということなんです。
※ 「バックメタル」という言葉はウッドが本当にウッド(パーシモン)で出来ていた時代にゴルフをしていた方にしかおなじみはないでしょうね。重心深度を深くするためにクラブ後方に金属を付けているクラブがありまして、その金属のことをバックメタルと言ったのです。
この当時、中島プロは黒いヘッドに赤いインサートにスイープバックソール(上図をご参照ください)のドライバーを使用していたので、私も同じに作ってもらいました。
シャフトの硬さは中島プロが7.7(XX)を使っていたので、少し遠慮して7.0(X)にしましたが、今思うと「超」見栄張ってるな😅という感じでマーク金井さんに叱られそうです💦
【3番ウッド】
これはやはり中島プロが当時色の明るい茶系の3番ウッドを使用していたので似ていたものを探していたんでしょうね。
当時は皆、飛距離の出るプロは
「ウッド2本、アイアンは1番あるいは2番から」
というセッティングだったので、私もそうしたセッティングに2000年過ぎまでこだわっていました。
【アイアン】
皆さんは2番アイアンと3番以降のアイアンのモデルが異なっているのにお気づきになりましたでしょうか?
2番アイアンは「MS−5」、3番以降が「MS−1」で構成されています。
当時中島プロは2番アイアンだけ「ミズノ インペリアル」というミズノプロよりワンランクやさしい、ボールが上がりやすいモデルを使っていました。
私ももちろんその「インペリアル」が欲しかったのですが、もう廃盤になっていましたので、新しく出たばかりのMS−1よりもウンと低重心でボールの上がりやすいMS−5を選択したというわけです。
【サンドウェッジ】
1980年頃からそれまでウェッジ構成がPW(ピッチングウェッジ)、SW(サンドウェッジ)の2本体制だったものが、SWを「アプローチ用」と「バンカー用」に分業化させる風潮になってきました。
少し見づらいのですが、上の画像のリンクスのサンドウェッジの隣りにいるベン・ホーガンのスペシャルサンドは当時上級者に人気の高いサンドウェッジでした。
ソールの削り具合が絶妙で、コースによってどうしてもフェアウェイウッドがもう一本必要で「バンカー用」のリンクスのサンドウェッジを入れられないようなときには、私はバンカーでも優秀なこのベン・ホーガンのサンドウェッジを「アプローチ&バンカー兼用」として使っていました。ロフトは55度です。
世界でもそのバンカーショットのテクニックを認められた青木功選手が使用していたこともありまして、私が「バンカー用」としてバッグに入れていたリンクス マスターモデルのサンドウェッジの優秀さは当時上級者の間で知れ渡っていました。
そのマスターモデルの標準のロフト角は57度だったのですが、この時、私がバッグに入れていたのはその後に発売された60度のモデルで、サンドウェッジ使いの名手倉本昌弘選手も一時愛用していました。
私の35年超(2017年現在)のゴルフ人生で✨✨最高のバンカーショット✨✨はこの当時、このリンクスのマスターモデルのサンドから放たれたものです。
コースは「いすゞレディースカップトーナメント」や「センチュリー21レディスゴルフトーナメント」の会場となった静岡県の伊豆大仁カントリークラブの富士コース3番の奥のバンカーで、
ライは「左足下がり」でアゴが高く「ピンは手前」、雨で砂が湿っていて、バンカーの縁とボールまでの間が「クラブヘッド一つか二つ入るかどうか」という状況
からのショットでした。
「もうどう打ってもほとんど不可能」という場面でしたので、覚悟を決めてボールを直接ヒットするつもりで思い切り打ち下ろしますとボールはスピンがかかって30cmについて父からOKをもらいました。
雨で湿っていたこともありますが、このリンクスのマスターモデルのスピン性能が証明されたショットでもありました。
【パター】
パターは中島プロが当時使用していたPINGパター各種や父が出張時のお土産として買って来てくれた同じくPING社のB60を使っていましたが、パターはその研究心にも関わらず下手でしたね〜😥
それが開眼していく様子について知りたい方はこちら↓をどうぞ
『下手だったパッティング』
今回はどうしてもなかなか超えられなかった「パターの壁」についてお話しようと思います。 パターでお悩みの皆さんにもご参考になるところがあるかもしれません。 …
さて、ゴルフクラブ狂の私の一昔前のゴルフクラブの話にお付き合いいただきまして恐れ入りました😅
今回もお読みいただきまして有難うございました😃
また一緒に楽しみましょう!!